
三國志
三国時代の年表
184年〜280年 — 乱世の百年を時系列で辿る
黄巾の乱勃発
張角率いる太平道の信者が「蒼天已死、黄天当立」を掲げて全国で一斉蜂起。後漢朝廷は各地の豪族に討伐を命じ、劉備・関羽・張飛の三兄弟もこの乱の鎮圧に参加した。乱は鎮圧されたが、各地の豪族が軍事力を持つきっかけとなり、後漢の実質的な崩壊が始まった。
黄巾の乱
張角率いる太平道の信者が「蒼天已死、黄天当立」を掲げて蜂起。全国各地で黄色い頭巾を巻いた農民軍が反乱を起こし、後漢王朝の権威は地に落ちた。劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを結び、義勇軍として参戦したのもこの時である。
董卓、洛陽に入城
何進の死後、董卓が洛陽に入城し少帝を廃して献帝を擁立。専横を極め洛陽を焼き払い長安に遷都した。この暴政に対し袁紹を盟主とする反董卓連合が結成され、三国時代の幕が開いた。
董卓の専横・洛陽炎上
霊帝崩御後、宦官と外戚の争いに乗じて董卓が洛陽に入城。少帝を廃して献帝を擁立し、朝廷を牛耳った。反董卓連合が結成されると、洛陽を焼き払い長安へ遷都。この混乱が群雄割拠の時代の幕開けとなった。
反董卓連合の結成
袁紹を盟主として曹操・袁術・孫堅・劉備ら18諸侯が連合を結成。虎牢関で呂布と激突したが、連合軍は内部分裂により瓦解。孫堅が玉璽を発見したことが後の混乱の種となった。
虎牢関の戦い
反董卓連合軍と呂布・董卓軍が虎牢関で激突。呂布の圧倒的な武勇の前に諸侯は次々と敗退したが、劉備・関羽・張飛の三兄弟が協力して呂布を退けた。この戦いで三兄弟の名は天下に轟いた。
董卓暗殺・王允の計
司徒王允が貂蝉を使った美人の計で呂布と董卓を離間させ、呂布が董卓を暗殺。しかし王允の失政により李傕・郭汜が長安を占領し、王允は処刑された。
曹操、献帝を擁立・屯田制開始
曹操が献帝を許昌に迎え「天子を奉じて諸侯に令す」の体制を確立。同時に屯田制を実施して兵糧問題を解決し、中原支配の基盤を固めた。
呂布の滅亡・下邳の戦い
曹操と劉備の連合軍が下邳城を水攻めで陥落させ呂布を捕縛。劉備の進言もあり曹操は呂布を処刑した。天下無双の猛将呂布の最期であった。
官渡の戦い
曹操が袁紹の10万大軍を官渡で迎え撃ち、烏巣の兵糧庫を奇襲して大勝。この勝利により曹操は中原の覇者となり、袁紹は失意のうちに病死した。三国時代の趨勢を決定づけた天下分け目の戦い。
官渡の戦い
曹操と袁紹が官渡で激突した三国志最大の決戦の一つ。兵力で劣る曹操が、荀彧・郭嘉の献策と烏巣奇襲により袁紹の大軍を撃破。この勝利により曹操は北方の覇権を確立し、天下統一への道を歩み始めた。
三顧の礼・天下三分の計
劉備が諸葛亮の草廬を三度訪ね、ようやく面会を果たした。諸葛亮は「天下三分の計」を献策し、曹操・孫権と鼎立する蜀漢建国の青写真を示した。この出会いが三国時代の歴史を大きく動かすこととなる。
三顧の礼・諸葛亮の登場
劉備が隆中の諸葛亮を三度訪ね、ようやく面会を果たした。諸葛亮は「天下三分の計」を説き、劉備の軍師として仕えることを承諾。「水魚の交わり」と称される劉備と諸葛亮の出会いが三国鼎立の礎となった。
赤壁の戦い
曹操の大軍80万(実際は20万程度)に対し、孫権・劉備連合軍が赤壁で激突。周瑜の指揮のもと、黄蓋の火攻めにより曹操軍は壊滅的打撃を受けた。この戦いで三国鼎立の基礎が固まり、曹操の天下統一は阻まれた。
長坂坡の戦い・趙雲の奮戦
曹操の大軍に追われた劉備が民を連れて撤退中、長坂坡で追いつかれた。趙雲は単騎で曹操の大軍に突入し、阿斗(劉禅)を救出。張飛は橋上で一喝して曹操軍を退けた。
赤壁の戦い
周瑜・諸葛亮の連合軍が黄蓋の火攻めで曹操の大艦隊を壊滅。曹操は北方に撤退し、天下三分の形勢が確定した。三国志最大の戦いにして、中国史上最も有名な海戦。
劉備と孫尚香の政略結婚
孫権が劉備を呉に招き、妹の孫尚香と結婚させた。「劉備を呉に留め荊州を取り戻す」という周瑜の策だったが、諸葛亮の計略により劉備は孫尚香を連れて荊州に帰還した。
劉備、益州を制す
劉備が劉璋から益州を奪取し、蜀の地を手中に収めた。諸葛亮・法正らの補佐のもと、成都を拠点として蜀漢建国への基盤を固めた。これにより劉備は荊州・益州を支配し、天下三分の計が現実のものとなった。
合肥の戦い・張遼の奮戦
孫権が10万の大軍で合肥を攻撃。張遼は800の精鋭で夜明けに孫権の本陣に突撃し呉軍を混乱させた。孫権は逃げ遅れ危うく捕虜になりかけた。「張遼止まれ」と呉の子供が泣き止むほどの恐怖の象徴となった。
白衣渡江・荊州陥落
呂蒙が兵を商人に変装させ白衣で長江を渡り、関羽の留守中に荊州を無血占領。退路を断たれた関羽は麦城に追い詰められ、孫権軍に捕らえられ処刑された。蜀の荊州喪失は天下三分の計の崩壊を意味した。
定軍山の戦い・漢中争奪
劉備軍が漢中をめぐって曹操軍と激突。黄忠が定軍山で夏侯淵を討ち取り、劉備は漢中王を称した。一方、関羽は樊城を包囲し「水攻め」で于禁軍を壊滅させ、その威名は天下に轟いた。
関羽の北伐・樊城包囲
関羽が荊州から北伐を開始し、于禁の七軍を水攻めで壊滅させ樊城を包囲。「威震華夏」と称されたが、呂蒙の荊州奇襲により退路を断たれた。
曹丕、魏を建国
曹操の死後、曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け魏を建国。元号を黄初と定め、洛陽を都とした。これを受けて劉備が漢の正統を継ぐとして蜀漢を建国し、三国時代が正式に始まった。
関羽の死・魏の建国
呂蒙の白衣渡江により荊州を奪われた関羽は麦城に追い詰められ、捕らえられて処刑された。同年、曹操が没し、息子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国。三国時代が正式に幕を開けた。
劉備、蜀漢を建国・夷陵の戦い
劉備が成都で皇帝に即位し蜀漢を建国。直後に関羽の仇を討つため呉に大軍で侵攻したが、陸遜の火攻めにより夷陵で大敗。劉備は白帝城に退き、そこで病に倒れた。
蜀漢建国・夷陵の戦い
劉備が成都で皇帝を称し、蜀漢を建国。関羽の仇を討つべく呉への大遠征を敢行したが、夷陵で陸遜の火攻めに遭い大敗。劉備は白帝城に退き、翌年そこで没した。臨終に際し諸葛亮に後事を託した。
呉の建国
孫権が魏から呉王に封じられ、後に皇帝を称して呉を建国。三国鼎立が完成した。孫権は長江を天然の要害として魏・蜀の侵攻を防ぎ、江南の開発を進めた。呉は三国の中で最も長く存続した国となる。
劉備の死・白帝城の托孤
劉備が白帝城で病死。臨終に際し諸葛亮に「君の才は曹丕の十倍、もし嗣子が補佐できなければ君自ら取れ」と後事を託した。後主劉禅が即位し、諸葛亮が丞相として蜀漢を支えることになった。
諸葛亮の南征・七擒七縦
諸葛亮が南蛮王孟獲を七度捕らえ七度解放し、心服させた南征。「攻心為上、攻城為下」の哲学を実践し、南方を安定させて北伐の基盤を整えた。
出師の表・北伐の誓い
諸葛亮が北伐出陣に際し後主劉禅に奉った上奏文「出師の表」。「臣本布衣、躬耕於南陽」で始まるこの文書は、忠義と報恩の精神を綴った中国文学の最高傑作の一つとされる。
街亭の戦い・馬謖の処刑
第一次北伐で馬謖が街亭で大敗。諸葛亮は涙ながらに馬謖を処刑し、自らも降格した。「泣いて馬謖を斬る」の故事が生まれた。
諸葛亮の北伐開始
諸葛亮が「出師の表」を奉じて第一次北伐を開始。街亭の戦いでは馬謖の失策により撤退を余儀なくされたが、以後も五度にわたって北伐を繰り返した。「鞠躬尽瘁、死而後已」の言葉通り、蜀漢の再興に生涯を捧げた。
五丈原の対峙・諸葛亮の死
第六次北伐で諸葛亮と司馬懿が五丈原で対峙。司馬懿は持久戦に徹し、諸葛亮は陣中で病に倒れ54歳で没した。死の直前まで政務を執り続け、木像で司馬懿を退けたという逸話も残る。
諸葛亮、五丈原に没す
第五次北伐中、諸葛亮は五丈原の陣中で病に倒れ、54歳で没した。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事が生まれたのもこの時。諸葛亮の死により蜀漢の攻勢は終わり、三国の均衡が崩れ始めた。
姜維の北伐継続
諸葛亮の遺志を継いだ姜維が北伐を継続。生涯で11回の北伐を行ったが、蜀の国力消耗と宦官黄皓の妨害により成果を上げられなかった。それでも姜維は最後まで漢室復興の夢を諦めなかった。
高平陵の変
司馬懿がクーデターを起こし、魏の実権を握っていた曹爽を失脚させた。この政変により魏の実権は司馬氏に移り、晋建国への道が開かれた。三国時代の終焉と晋の台頭を告げる歴史的転換点となった。
高平陵の変・司馬懿のクーデター
曹爽が高平陵に参拝中、司馬懿が洛陽を制圧するクーデターを決行。曹爽は降伏し三族皆殺しにされた。これにより魏の実権は司馬氏に移り、晋建国への道が開かれた。
鄧艾の陰平突破・蜀漢滅亡
鄧艾が陰平の険路を奇跡的に突破して成都の背後に出現。後主劉禅が降伏し蜀漢は43年で滅亡した。姜維は鍾会を利用して反乱を企てたが失敗し、三者ともに死亡するという劇的な結末となった。
蜀漢の滅亡
魏の鄧艾が険峻な陰平道を奇襲し、成都に迫った。姜維が剣閣で鍾会軍を防いでいる間に、鄧艾軍が成都に到達。劉禅は降伏し、蜀漢は42年の歴史に幕を閉じた。姜維は最後まで復国を図ったが果たせなかった。
司馬炎、晋を建国
司馬懿の孫・司馬炎が魏の元帝から禅譲を受け晋を建国。三国時代の魏は事実上終焉を迎えた。司馬炎は呉の征服を目指し、統一への準備を進めた。
呉の滅亡・三国時代の終焉
司馬炎が建てた晋が呉を征服し、三国時代に終止符が打たれた。約100年にわたる乱世がようやく終わり、中国は再び統一された。しかし晋の統一も長くは続かず、八王の乱を経て五胡十六国時代へと移行していく。
呉の滅亡・天下統一
晋の大軍が呉に侵攻し、最後の皇帝孫皓が降伏。約100年にわたる三国時代が終焉を迎え、中国は晋のもとで再統一された。しかし晋の統一は長続きせず、まもなく五胡十六国時代の混乱期に突入した。
用語集
三国志の事件・策略・制度を解説
赤壁の戦い
後漢末期、曹操の大軍(約20万)と孫権・劉備連合軍(約5万)が長江の赤壁で激突した大海戦。周瑜の指揮のもと、黄蓋が偽降伏を装い火船で曹操の水軍に突入。連環の計で鎖でつながれた曹操の船団は炎上し、曹操は大敗を喫した。この戦いにより天下三分の形勢が確定した。
天下三分の計
諸葛亮が劉備に献策した天下統一の戦略。曹操が北方を制し、孫権が江東を固める中、劉備は荊州・益州を取り、呉と連合して曹操に対抗するという三国鼎立の構想。「隆中対」とも呼ばれ、後の三国時代の形成を予言した卓越した戦略眼として名高い。
桃園の誓い
劉備・関羽・張飛が桃の花咲く園で義兄弟の契りを結んだとされる故事。「生まれた日は違えど、死ぬ日は同じくせん」と誓い合い、漢室再興を誓った。三国志演義の冒頭を飾る名場面で、義兄弟の絆の象徴として後世に語り継がれている。
官渡の戦い
曹操と袁紹が北方の覇権を争った大戦。兵力で劣る曹操が、許攸の内通により袁紹の兵糧庫・烏巣を奇襲し、大勝利を収めた。この戦いにより曹操は北方統一への道を開き、袁紹は失意のうちに病没した。三国志三大戦役の一つ。
三顧の礼
劉備が諸葛亮を軍師として迎えるため、隆中の草廬を三度訪問した故事。最初の二度は諸葛亮が不在で会えず、三度目にようやく面会が叶った。この誠意に感動した諸葛亮は劉備に仕えることを決意した。「三顧の礼」は現在でも誠意を持って人材を招く意味で使われる。
連環の計
赤壁の戦いで用いられた策略。曹操の水軍が波に慣れていないことを利用し、船を鎖でつなぎ合わせて安定させた。これにより火攻めの効果が飛躍的に高まり、黄蓋の火船攻撃で曹操軍は壊滅した。貂蝉が呂布と董卓を離間させた策も「連環の計」と呼ばれる。
蜀 ・ 車騎将軍
張飛
劉備・関羽と義兄弟の契りを結んだ猛将。蛇矛を操る豪傑で、長坂坡では単騎で曹操軍を退けたと伝わる。粗暴な面もあったが、義に厚く知略も持ち合わせていた。関羽の死後、復讐を誓ったが部下に暗殺され、その首は呉に送られた。
呉 ・ 大都督
周瑜
呉の大都督として赤壁の戦いを指揮し、曹操の大軍を撃退した天才軍師。音楽にも精通し「曲に誤りあれば周郎振り返る」と言われた。諸葛亮との知略の競い合いは三国志の名場面として名高い。若くして病没したが、その才能は後世に語り継がれている。
豫州 ・ 戦場
官渡
200年、曹操と袁紹が激突した北方覇権を決する大戦の地。兵力で劣る曹操が、荀攸・許攸の策を用いて袁紹の兵糧庫・烏巣を奇襲し、大勝利を収めた。この戦いにより曹操は北方統一への道を開いた。三国志三大戦役の一つ。
司隷 ・ 都城
洛陽
後漢の首都。董卓が実権を握り、後に焼き払われた。魏・晋の首都としても機能し、三国時代を通じて政治の中心地であり続けた。九朝古都として中国史上最も重要な都市の一つ。牡丹の名所としても知られる。
三国志豆知識
知っているようで知らない、三国志の意外な事実
Q.
「三顧の礼」の「三顧」とは?
A.
三度訪問すること
劉備が諸葛亮を軍師として迎えるため、隆中の草廬を三度訪問したことを指す。一度目・二度目は不在で会えず、三度目にようやく面会が叶った。この故事から「三顧の礼」は「礼を尽くして人材を招く」という意味で使われるようになった。
豆知識一覧
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